昭和50年11月1日朝の御理解

御理解第百節「めでためでたの若松様よ、枝も栄える葉も繁ると言うではないか。金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃ」


 昨日、三十一日ですから、月末御礼信話会が例の通り開かれました。皆さん、いろいろおかげを受けておられることを話しておられましたが、どの方のお話でも、話を聞いても、その話一つ捉えただけで、もう今日は価値があった。もうそれ一つでよいという話ばっかり出ました。
 中に、一番に、福岡の西原さんが御参拝なっとられましたが、昨日、嘉朗さんの車で、おかげを、御参りをさせて頂きたいと言うてお願いしてあったんです。そして、時間が段々近付いて来るのに、食堂をなさっておられます。それに材料、もう毎日毎日売り切れて行かなければ、食物のこととなったのですが、いかんわけです。それが残っておるから、冷蔵庫に入れておいて、それでも商いものになりませんから、まあしだごだになってしまう。それで神様にお願い致しましたと言うて、お願いなさった時の話をしておられました。御神前に出て、お光を上げさして頂いて、そして…と。
 私は、そこまで聞いた時にね、もうおかげ頂きなさったと思うたです。もう私は、それ一つ聞いただけで、「もう今日の信話会の皆さんがおかげを受けたよ」と言うたことでした。おかげを頂いて、迎えにくるちょっと前に、金額にして、わずか千四五百円かたの物でしたけども、もうすっかり売り切れてしもうたところに、嘉朗さんに迎えに来て頂いて、おかげを頂いた。「もうこれはいつものことです」と言われる。
 ただ神様にお願いしました。どうぞと心に念じながら、ああおかげを頂きましたと。他いろいろありますけどね。あの、お光を上げて拝みましたというところに、私はね、金光様の御信心の、本当に、純粋にして、何と申しますか、率直と申しますか、もう神様へね、向かう心がそれです。まあ日頃の西原さんの信心が、そういうふうにして、まあこれはね、金光様の信心のほんまだ若い御信心、素人の信心、金光様の信心の有難いと分かったばかりの信心ですね。
 けれどもね、例えば、ちょっとしたことをお願いするでもね、お光を上げて、いわゆるお灯明を上げて御祈念をするという、そういう心がけということではないのですけれどもね、ああもう何かね、本当に神様がもう目の前に御座るという感じ。そしてまた聞いて下さるという、一つの確信というものを持って拝んでおられる、ね。
 私は、例えば、今日の「めでためでたの若松様よ」といったようなおかげ。また、その若松が、それこそ老松が生い茂っておるような、子孫繁盛家繁盛の道を教えると仰るが、そういう、もう一番初歩の時から、そういう生きた神様をそこに頂いて、願われて行くという信心でなからねば、どんなに巧者なことが分かっても、熱心な信心をしても、奇跡的なこんなおかげを頂いたと言うてもです、こういう子孫繁盛家繁盛というようなおかげにつながって行かないと思うですね。
 勿論、お神様を拝むと言うても、別にお社を求めて、入足を作って拝んでおられるわけでも何でもないです。ただ、私が書いてやったものを神様として、そこに張りつけちから、そしてそこに御神飯か、お供えされるような、箱か何かの上で、拝んでおられるらしいです。
 次に、田中初美子さんが発表しておられます。昨日は美登里会で、美登里会の方達が十八名、家内を中心に、久留米の温泉センターですかね、何とかという温泉に行っておられます。毎年恒例になっとられます。そして、奥様の御供をして、久留米にやらして頂いて、あちらにやらして頂いたら、お部屋の入り口に、「金光教合楽教会御一同様」という札が出ておったら、もうそれを見た途端に感動したと言うておられます。あの、信心はね、とかく感動の生活です。信心生活というのは、詳しゅうなるやら何ではないです。
 昨日、麻生さんが、二度目のお参りを昨日なさいました。「時に先生、私は、もうこの頃本当に涙もろくなった。その涙が何とはなしに有難い涙が、電話を聞きよっても涙がこぼれる」といったようなお届けをされました。そればってんが、こげん有難いことはないですばい。もう本当に、苦しいけん涙がこぼれるとかね、歯痒うして涙がこぼれたというのではなくしてね、有難うして涙がこぼれることが、例えば、電話を受けながらでも、「有難うございます」と言った途端に、涙がこぼれるようになって行くことが、それこそ信心しとれば一年一年有難うなって行くことが、ことのおかげの、それは現れですよと言うて、まあお互い、有難涙に暮れられるということが有難いね。
 信心しとれば、一年一年有難うなって行くという信心、私は、有難いというものが、段々身に付いて行くことが、いよいよ、家繁盛子孫繁盛の土台が出来ていっている印だと。私は、その田中さんの話を聞いてから、そして、あちらでいろんな体験を、色々発表しておられましたね。
 帰ってくるまで、万事にお繰合わせ頂いて、一日過ごしておりますから、今晩の信話会に出るとに、誰か妙な態度をとったり、言いどんせんじゃろうかと心しておりましたが、皆そういう雰囲気もなく、有難く、今晩も御礼参りが出来て、信話会にもこうして語ることが出来たというわけであります。
 これは、田中さん、あなた方の信心の、毎朝毎朝お参りなさって、言うならば、日に日に新な信心がなされなければ、そういう感動は受けられないねと言うたことです。十八人御出でられたが、その十八人が十八人ともです、合楽教会御一同様という、言わば、紙の札か何かが掛けてあったんでしょうが、なら皆が見たでしょうが。十八人か十八人じゃなかったと思うのです。もう、金光様の信心の言うなら、始まりはそこから始まるのです。
 なら、昨日一日の温泉行きがです、もうそこから、最後まで有難く頂けるなあと感じるのです。なら、それはどういう感じでキャッチするのです。日に日に新な信心から、だから、これは西原さんの信心が素人の、まあ素人というか、合楽のお参りが頂けるようになって、次々とおかげが頂ける。お願いをすればおかげを頂くということから、それこそ神様に対する、信の念というものが段々強うなって、今日もお商売に少し残っとる。これではまあ勿体ない、もう迎えにきてもらう時間が迫ってきておるので、神様どうぞ、ま、売れてしまいますようにというお願いをさせて頂くのですけれども、お光を上げちから拝みましたというそこにね、もう決まっているです。だからと言うて、なら、皆さんが帰って、なら、家に帰ってから、すぐお光上げちからというような、拝んでおかげ頂こうというのではないです。それが、自然に自ずと出来るところにね、神様が生きた働きを見て行くのです。 
 だから、合楽で信心を頂かれる、初めの頃の言わば、根が下りたばかりの信心というならばです、田中さんのお話は、毎日毎日お日参りをさしてもらう。そして、信心が日に日に新な心で求めておらなければです、ふっとしたものに触れた途端に、有難うなるような心は生まれて参りませんです。もうそれからズーっと有難いものが続いて行くです。その有難い心に私はおかげがあると思うのです。新な信心、新な信心が必要です。
 麻生さんが信心をされるようになって、もう何年になるでしょうか。秋永先生のところに店員さんで御出でられて、おられた頃からの信心ですから、もう何年に、何十年になりましょうか、ようやく最近です、それこそ、電話を受けておっても有難うなる。もう自分でも不思議でたまらん。しかし、涙が出るほどうれしいというのは、これほど有難いことはないです。いわゆる、やはり一つの理想というのは、何十年間でしょうね。十何年間、なら出来て、信心のことも分からせてもろうて、もう理屈じゃない。有難涙が、何か特別のおかげを頂いたから涙がこぼれたというのではなくて、「はいはい、もしもし」と電話を聞いた途端にです、何か感動が湧いてくるとです、信心の言わば、有難うならして頂く稽古をさして頂いているのであります。
 金光大神は、家繁盛子孫繁盛の道ということは、どういうことかと言うと、ただ家が繁盛するということは、ただ子孫が続くというだけじゃありません。人間の幸せのすべてがね、足ろうて、しかもそれが、末広がりに広がって行くという意味なのです。ただ、商売なら商売が繁盛するというだけじゃありません。金光大神はそういうおかげの頂かれる道を教えて下さるのです。
 私どもの栄四郎が、昨夜発表しとりました。もう本当に親先生が、僕達のことを祈って下さるということがよう分かる。分かれば分かる程、もうこんなことじゃ相済まん。こんなことじゃ相済まんと、もういつもいつもそのことを思い続けておることを話をしておりました。そう思いながらです、実際は身体がいうことを利かんという訳なんです。
 私はもうそれだけで良いと思いました。そういう風に思い続けておれば、いつか必ず神様が立ち上がらして下さる。本当にならして頂くおかげが頂かれるのです。そういう、こんなことでは相済まん。こんなことでは相済まんという気持ちが、そこからです、何かのチャンスを与えられた時に、改まることが出来るのです。
 お道の信心は、改まることも、研くことも、極まっております。改まるということは、まあ栄四郎の言葉で言うならばです、親の意に添わない生き方をしておる。それが親の思いに添う生き方になった時が改まったのです。御神慮に添い奉る生き方、御神慮とは反対の生き方をしている間、その生き方をしている自分がです、いつも、相済まん相済まんが段々段々募ってくる。
 私は、昨日、栄四郎の話を聞かしてもらいよって、初めの間は相済まん相済まんと思いよったばってん、その内には当たり前のごとなるというような言い方じゃなかったです。こういうような思い方ならば、段々段々、その相済まんという心が強うなって行くだろうというような表現をしましたよね。でなかったら駄目です。しまいには、しっぱらまし、こうなってしまうから、どげなことしても、蛙に小便振りかけたようなことしとってはおかげにならんです。ほんなことに、こんなことじゃ相済まん、こんなことじゃ相済まんと。
 そりばってん、今朝はあんたは、私が起きる前から御用させて頂きよったじゃんのと言うたら、何と昨日は寝らんなりに御用頂いたそうです。それで、私が三時十五分に起きた時には、もう部屋に来とりました。それがね、本当に、時々でもです、寝らんならん、今夜。明日の朝こそ、一つおかげを頂こうという、そんな意欲がなからねば、そんなことは出来んです。
 そして、一度枕をつけたが最後、もう起きられない。部屋に起こしにいっても、やっぱり起きられない。部屋に起こしに行っても、やっぱり起きられない。こんなことでは本当に、いつも親先生に相済まん、本当に相済まんと思いよるというわけです。その、思い続けておるということがです、段々募ってくる。そこから本当の改まりが出来るのです。
 本当の改まりというのは、こんなことじゃ御神慮に添わん、添うた生き方じゃないと、自分で、その、分からしてもらって、その思いが段々募ってきて、そしてそれを御神慮に添う在り方に改められた時が、それが本当の改まりです。その上に、磨きをかけて行くという生き方になる時に、麻生さんじゃないけれどもです、この頃本当に自分でもおかしいくらいに涙もろくなったと。その涙が何かというと、とにかく何とはなしに有難い涙というのです。いわゆる、改まることと研くことと、教祖はこの教典のすべての中から教えておられます。
 金光大神が教えて下さる子孫繁盛家繁盛の道とはです、もういよいよ改まって行くことであり、研いて行くことであります。それを長年かかっても、何年かかっても良い。こんなことではおかげの頂けるはずはない、こんなことでお徳が受けられるはずはない。こんなことでは相済まん、こんなことでは相済まんと言う思いがです、やはり、さらにさらに募って行くというところから、何かの調子に、それがおかげを頂いて、改まった生き方になるということは、こんなにも有難いことかと分かってくることになるのです。
 金光大神はそういう道を、そういう生き方を、枝も栄えりゃ葉も茂ると言うではないか、教祖は、子孫繁盛家繁盛の道を教えるというのは、そういう改まって行く道、研いて行く道を教えて下さるのです。そういう信心を頂きながら、準初歩的な、それこそお光を上げて拝みましたというような信心から、信心がもうしみじみと有難うなってくるです。
 例えば、これが、後から長々と話をしておられたけど、現在奥さんと別居中です。それで、自分が、身体が不自由なりに商売が出来たと思いよったけど、「お商売はあなたの身体の動く範囲でね、なさったら良いですが」と言うとりましたから、今お店を開けて、ボチボチながらなさっておられると、この自分の身体で丁度良かくらいのお客さんの、が、おかげを頂くと言うておられます。さあ、バタバタせんならんというようなことはないと言うとられます。そして余ったら、お光を上げて拝みますと言われる。
 ですから、こういうことに神様が、このように私のお願いを言わば聞いて下さる神様だから、ここに言うならば、奥さんとの人間関係の問題で何かもたもたしたものがあるけれども、これもです、神様のそういう間違いのない働きの中にあるけれども、自分が不自由を感じんと言うならば、これは自分自身が改めなければいけないことが分かりますねと言うて、私、その後で申しましたことです。あなたがお光のことを拝うでから、奥さんのことをお願いしたっちゃ奥様は帰って来なさらん。
 例えば、なら、お商売のことは聞いて下さるけど、他のことは聞いて下さらんという神様ではないのですけれども、これはまあだお縋りのしようが足りんのだ。日々の改まりが足りんのだと分からせて頂く時にです、いよいよより改まらなければならないことが、神様がおかげ頂かしきんさらんとじゃない、こちらの頂く方の受け物の方が、まあだ本当のものではないんだという方が分かるじゃないか。そういう働きの中に、お商売もありゃ、人間関係もあるんだということがです、確信付けられた生活をさせてもろうて、信心が段々成長して行く。
 私はね、今日は、皆さんに聞いて頂いたような具合に、信心の成長というものは、こうなからねば、何年何十年信心しとったっちゃです、そういう神様とのつながりといったようなものの間違いなさといったようなものを、リアルにとでも申しますかね、神様を心に頂いて行く生き方が身に付いて来なかったらです、この御理解百節のようなおかげを頂けるぞという確信も生まれてこない。けど、そういうおかげが段々繰り返されて行くところからです、私がこの信心を頂いてさえ行けば、子孫繁盛間違いない。子孫繁盛間違いのない、おかげが受けられるという、私は確信を持って信心が進めて行けれると思うです。
 別に教えられたわけでもないけれども、神様が分かってくると、そこからね、もう、神様と交流する。それはもう、なら西原さんと神様との間に交流する、その一つの手がかりといったようなものがね、その人その人なりに出来てくるです。
 私は、神様をただ御取次を頂いておかげを頂くという信心からです、自分が直にです、神様とお願いをすることが、一々聞き届けて頂けるような、そこには限りない改まり、限りない本心の玉を清めて行く。言うなら、働きが、また楽しいものに、有難いものになってくる。そういう生き方を、神様は、教祖様は、あらゆる角度から説いて下さってあると思いますね。
 信心を育てるというてもです、やはり、信心の種を播く。それが芽を切る。そして、それが枝になり、葉になって茂って行くのですから、それを育てて行くというおかげ、まずは、喜びの芽が出なければならん。それを育てて行くことに、日に日に新なという信心が必要なのです。
 そういう信心を頂いて行くうちにです、それこそ、一年一年有難うなってくるという、麻生さんじゃないですけれども、とにかく有難涙がこぼれる。それが、日のうちに何回となしに、それを感じるようになったと言われるように、一年一年有難うなっておられる証拠です。その一年一年、その有難うなって行く、その道がです、いよいよ子孫繁盛家繁盛の道につながって行くのです。そういう道を教祖は教えておられるのですよね。どうぞ。